「……ん」
夜明け前、不意に目が覚めた。
眠気も残さない、すっきりとした目覚め。
確かに年を取ってから目覚めが早くなったことは実感していたが……これは、いつもより早いような気がする。
起きあがり、いつものローブに着替えると、山の向こうから朝日がゆっくりと昇ってくるのが目に入った。
「朝じゃのう……」
ただの朝ではない。なぜだかそんな予感がした。
世界の広さはよく知っている。実戦から離れて大分立つが、まだまだ若い者には負けないつもりだ。
一つ大きく伸びをして、礼拝堂に向かう。
すると既にそこには、先客がいた。
緑の神官服に身を包んだ一人の青年、クリフト。
手を組んで、一生懸命に祈りの言葉を唱えている。
耳を澄ますと、クリフトの小さく囁くような声が聞こえた。
「……神よ、どうか姫様をお守りください」
その言葉に、ブライは小さく苦笑して肩をすくめた。
多分きっと、この青年は世界が滅びるまでこの調子なのだ。長年姫様とクリフトを見てきたが、恐らくこの先も、飽きるということはないだろう。そう感じた。
祈りを終えたらしく、クリフトが立ち上がる。
傍らに置いておいた神官帽を手に取り、深く被った。
「……ブライ様、いらしたのですか」
「相も変わらず、熱心じゃのう、お主」
ブライがそう声をかけると、クリフトは真面目な表情で頷いた。
「ええ、それが……私ですから」
「じゃがそれにしても、いつもより早い気がするぞ。クリフトよ、お主もしかして、夜明け前からここにいたか?」
「はい」
そう言って頷くクリフトの顔は、何故だが普段と違って見えた。そんなクリフトを見ながら、ブライは自分の口ひげを小さくしごいた。
フム……。
ブライが何か言おうと口を開きかけた瞬間、クリフトがゆっくりと口を開いた。
「――前から、思っていたことがあるんです」
「何じゃ?」
返答を何となく予感しながらブライが続きを促すと、クリフトは礼拝堂の真ん中に立って両手を広げた。
「この、サントハイムの城は、姫様には狭すぎるんです」
「……同感じゃ」
ことによると、この国全土でも狭いかもしれない。アリーナという器は、それほどに大きい。
きっとこの世界全てでないと、彼女は満たされない。そんな予感がする。
「だから私は、そんな姫様を守り、お助けし、力になりたいと思っています」
「……知っておるよ」
口先ではアリーナをいさめるような台詞を吐きながら、その実そんな台詞には何の効果もないことを一番知っているのはこの青年だろう。
彼女が城を飛び出すことがあれば、真っ先に飛び出してついて行くに決まっている。それがよく分かっているから、ブライは小さく肩をすくめた。
「じゃからその時は、わしも行くわい。お主と姫様だけなんぞ、危なっかしくてかなわんわ」
「ブライ様……」
愛用の杖で肩を軽く叩いて、じろりとクリフトを睨む。
「遅かれ早かれ、いずれ姫様は出て行くじゃろうて。そなたらはまだまだひよっこじゃ。眼を離したら、どうなってしまうことやら」
アリーナはもちろんだが、クリフトも十分世間知らずだ。ならばそんな二人の、助けになってやろうではないか。
「……ありがとうございます、ブライ様」
クリフトが柔らかく微笑んで、頭を下げる。ブライはうんうんと頷いて、再度口ひげをしごいた。
「……きっと、そのうちに、のう」
もしかしたら、今日かもしれない。明日かもしれない。とにかく旅立ちの日は近いだろう。
部屋の整理整頓には常に気を配っているが、今一度見直した方が良いだろうか。
そう思いながらブライは礼拝堂の端に目をやって、小さく目を丸くした。
「何じゃ、あの大荷物は……」
あれはどう見ても、長旅用だ。もしや……。
「保存食、簡単な薬剤、それから着替えの類でしょうか。野営に使用する、テントや調理器具もありますよ」
さらりとクリフトが答えを口にする。ブライは、それを聞いて大きく息を吐いた。
「……意外とやるのう、お主」
やることなすこと、徹底しているとはまさにこのことか。あまりに用意が周到で、もう笑うしかない。
きっと近々始まるであろう新しい日々を思い描いて、ブライは口元を緩ませた。
久しぶりに血が騒ぐ。自分の若い頃を思い出すかのようだ。
ブライは、未だ眠りの中にいるであろう自らの小さい姫を思い、礼拝堂の中でゆっくりと祈りを捧げた――
……どうか、姫様とクリフトに、神の加護を。