特別な、朝 -side c-

 いつもよりも早く目が覚めた朝。
 早速礼拝堂に行って神に祈りを捧げていると、そのうちにブライ様が来られて少し話をした。
 そして話をしたことで気が付いたのだ。
 この城を出て、広い世界を見たがっているのは他ならぬ自分、なのだと。
 世界は広い。そのことを、城の書庫にある本を一冊読破するたびにどんどん実感していく。
 アリーナに着いていきたいのも本当。だけどもう一つの本音は、世界が見たいと叫んでいた。
 ここ最近は、旅に関する書物を読みあさり、どうすればいいかとあれこれ考え事をしながら旅支度をしていた。
「世界は……広いのでしょうね」
 城の窓から見える青空は高く澄んで、この先にあるものを想像させた。
 自室の隅に置いた荷物を見やり、これが無駄にならなければいいなと考える。
 ここ数日、ずっとそんな調子だったからか、「随分楽しそうですね、クリフト」と神父様に苦笑されてしまった。
 それにしても、ブライ様まで来てくださるとはなんたる僥倖。若い頃は世界を巡った経験もあるらしく、やはり旅慣れた方が一緒に来るというのは心強いものだ。
 ……姫様なら、一人旅がしたいとおっしゃるでしょうがね。
 くすくすと笑いをこぼしながらクリフトが手の甲を己の口元に当てる。すると次の瞬間、上の方から巨大な、まるでイオを炸裂させたかのような轟音が響き渡った。
「……な?」
 すわ敵襲かと一瞬身構えたが、兵士達から漏れ聞こえた声で事態を理解し、ほっと安堵の息を吐く。
 ……何だ、姫様が部屋の壁を蹴破られただけか。
 それも十分異常事態なのだが、既にクリフトはそのことに対して麻痺してしまっていた。
 アリーナが勉強を終えて勢いよく退出する時に壊したドアの数など、もう覚えていない。ここのところ本格的に力が有り余っているようで、だんだんとこの城が彼女を受け止め切れられなくなっていることを実感していた。
「……ですが」
 クリフトははたと気が付いてあごに手を当てた。
「部屋の壁を蹴り破られたのは、初めてかもしれませんね」
 いよいよ本格的に旅に出たいのかもしれない。もしかしたら、今日中にでも。
 薬草の数は足りているだろうか。調理器具は万全だろうか。
 姫様に不自由な思いをさせないよう、あれやらこれやらの準備は整っているか。
 そう考え出すと不安になって、クリフトは自分の旅支度を見直したくて仕方が無くなってしまうのだった。
「…………」
 荷物を一旦あらためた方が良いかもしれない。
 そう思い、リュックに手を出そうとした次の瞬間、クリフトの部屋のドアが勢いよく開かれた。
「クリフト、いる!?」
 生命力に満ちあふれたその声を、聞き違えるはずがない。クリフトはそれはもう勢いよく全力で振り返った。
「姫様!」
 クリフトの言葉通り、そこにはクリフトが世界で一番大切に思う少女が立っていた。
 微妙に不機嫌そうなのはやはり、先ほどの件で王に叱られたからだろうか。
「全くもう、嫌になるわ!じいやも大臣もお父様も、みんな揃っておしとやかにしろ女性らしく慣れ立ち居振る舞いには気を付けろって、説教ばっかりよ!」
 案の定、アリーナの口からはいつも通りの不満の言葉が飛び出した。クリフトはそれを黙って聞きながら、そっとアリーナに席を勧め、紅茶を差し出す。
「ありがとう、クリフト」
 アリーナが礼を言って、カップに口を付けた。
 カップの紅茶を飲み干して、アリーナがゆっくりと息を吐き出す。
 それを見守って、クリフトはそっと口を開いた。
「……ですが、王の仰ることもどうか心に留めておいてくださいませ。姫様の身に何かあったら、このクリフト……いえ、王様がどんなに嘆かれることか」
 うっかり本音を口に出しそうになり、クリフトは慌てて別の言葉へと言い換えた。
 すると、アリーナがクリフトを小さく睨んでくる。
「何よ、クリフトまでじいと同じことを言うの?」
「いいえ、滅相もない」
 アリーナが淑やかにしているだなんて、似合わない。だってこの城じゃ、この国じゃ、アリーナには狭すぎる。
 ただそれでも、危険な目にあって欲しくはないのだ。
「……もう、そろそろ行くわね」
 紅茶を飲み干したアリーナがカップをおいて席を立つ。その背に、クリフトは囁くように声をかけた。
「姫様」
「……何かしら?」
 こちらを振り向いたアリーナの目をまっすぐに見て、クリフトは言葉を紡いだ。
「旅に……出たいですか?」
「…………」
 アリーナは、一瞬呆気にとられたようだったが、すぐに力強く頷いて見せた。
「当然よ!私の力を、試してやるんだから!」
 それを聞いて、クリフトは安心したように微笑んだ。
 ああ、それならば、きっとこの旅支度が無駄になることはないだろう。

 アリーナを部屋の外まで見送ってまもなく。
 再びアリーナの部屋の方から轟音が響いてきた。
 その音を聞きながら、クリフトはゆっくりと旅に備えておいた荷物を持ち上げる。
「行くのですね、クリフト」
 神官長様が声をかけてくる。そちらの方を振り向いて、クリフトは丁寧に頭を下げた。
「はい……しばらく留守にすることを、どうかお許しくださいませ」
「分かりました。姫様を、お願いしますね」
「はい!」
 神官長様に答えてアリーナの部屋へと向かう。その途中で、ブライ様と合流した。
「行くか、クリフト……楽しい旅に、なるじゃろうて」
「ええ、それはもう」
 王様はすっかり頭を抱えてあきらめ顔だ。気の毒にと思いながら、アリーナの開けた壁の穴から外を見渡す。
 ああ……世界は広いんだなあ……。
 斜め下に目をやると、アリーナが今まさに城の外へと出て行こうとしているところだった。
「姫様!」
 咄嗟に声をかけ、飛び降りる。高いところが苦手だの何だの、言っている場合ではなかった。
 アリーナがクリフトとブライを見て、驚いた顔をする。
 ああ、そんな顔をしないでください、姫。止めに来たわけじゃ、無いんですから。
 止めても無駄なのは知っている。だから自分が、守るのだ。
 新しい日々に、わくわくする。
 見上げた空は、どこまでも高く澄んでいた。